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自叙伝 その一

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僕の最古の記憶は誰かに負われて長い道を行くところからだ

舗装されてない緩やかな坂を笑うでもなく泣くでもなくただ淡々と歩く人の背中で僕は日の光を見ていた

後日…それも20年以上経って判ったのだが僕を背負っていたのは母で父と離婚後祖母の元に身を寄せるためにその道を歩いていたのだ

それは昭和30年、僕が2~3歳の頃の記憶である

僕は母の背中で何かしら重々しい緊張に身をすくめていた

僕には姉が3人いるがその時は僕一人だったような気がする

もしかしたら何か手荷物を持ってついて来ていたのかもしれないがすぐ上の姉は2歳その上は4歳、長姉でも6歳しか違わない

そんな子供に大きな荷物は持たせられないだろうからやはり何かの理由で僕一人だったのだと思う

父の記憶は全くと言っていいほど無い

母は父のことを悪く僕や姉に刷り込んだ

そしてそれは事実として僕の中に澱のように溜まっていき後年の僕に少なからず影響を与えたと思う

 

祖母の元に身を寄せた僕と母と姉3人の計5人だが祖母も決して裕福ではなく一家七人が京城(韓国-今のソウル)から無一文で引き上げて来て極貧に近い状況であったにもかかわらず受け入れてくれた

そこでは1年半ほど住んだらしい

祖母は僕をかわいがってくれた

それは孫に対する溺愛と言うのではなくちゃんとしたかわいがり方だったように思う

後年、叔父に子供が出来、たまたま祖母の家で一緒になったことがあった

祖母はその子供をかわいがり目の中に入れても痛くないような扱いだったが躾はしなかった

それでも僕たち五人は祖母の家にとって「厄介者」でしかなく子供心に肩身の狭い思いをしてはいた

叔父や叔母にいじめられたり、罵られたりしたことは全く無いがどこか子供心に負い目があり、常に遠慮して暮らしていた

そして母は祖母の家からそう遠くないところにアパートを借りた

「山海荘」という美しい名のついたそのアパートは今思えば笑ってしまうほど名前負けをしていた

常に糞尿のにおいがし、夜になると窓ガラスにヤモリが張り付いた

ただ小さな庭が有り梅ノ木が植わっていた

その梅ノ木の根っこのところを小さな虫が這っていた

僕が下駄でその虫を踏みつけた

その虫は僕の理不尽な行為の元、厳粛に死んだ

それは僕が生まれて初めて意識的に生き物を殺した最初だ

子供心にその行為が許されるのか漠然とした疑問を持ったがそれを深く追求できる知識を僕は持ち合わせていなかった

そしてそこの住人の僕たちが「おにいちゃん」と呼んでいた少年は近くの畑で大根やスイカを盗んではそのおこぼれを持ってきてくれたりしていて

母は重宝してたらしい

畑から大根を盗んでも「こら~!!」で済ませられる時代だった

母は水商売をしていたらしいが詳しくは語らないし僕も聞くことは無い

母は休みの日いつも寝ていた

公園で遊んでもらったとか、キャッチボールの真似事とか、そういったことの記憶が一切無く一緒に買い物に行った事もなかった

姉が学校へ行くようになると僕は母が寝ている横で膝を抱えて母の眠りを妨げないようにするのが日課となった

僕は幼稚園と言うものに行ってない

理由の一つは僕自身が極端な虚弱体質で何か有るとすぐに熱を出し、リンパ腺が腫れややもすると重篤な状態に陥ってしまう時があったからだが実際はもう一つの理由「貧乏」だったからだと思う

だから毎日姉が帰ってくるのを待ちわびていた

当時の僕にとって一日は長く、わびしく、悲惨な時のまとわりでしかなかった

母は僕に一冊の絵本を買ってくれた

あとにも先にも母が買ってくれた唯一の絵本だった

「おさるのジョージ」

ジョージと言う猿が町に出ていろんな人に出会い、さまざまな出来事に巻き込まれそして無事に元の家に帰ってくるという話だと記憶している

僕はその本をなんどもなんども擦り切れるほどに読んだ

読むものがそれしかなかった

学校へ行く前の僕には話よりも絵でストーリーを理解した

自分のいる現実の世界と比較しておさるのジョージの世界が、たかだか町を一周するだけのストーリーが僕にとって広大な世界に思えた

5歳の頃、また引っ越をした

そこは6畳に4畳半、小さなキッチンがついていた…といっても現在のキッチンをイメージすると始めてみた人はかなり違和感を覚えるだろう

水道は鉄管がむき出しでその先に蛇口がついて排水は石製の流し台からダイレクトに外の溝につながっていた

玄関も風呂も共同でトイレも共同だった

トイレから出ると匂いが身体に染み付いていたが当時水洗は珍しくどこも似たり寄ったりだったのかもしれない

母親はほとんど家にいなくて子供四人生活はそれなりに秩序立って生活をしていた

長姉は体が少し弱かったが優しく僕の面倒を見てくれた

次姉は僕とは全くそりが合わずあれから50年以上経った今でも仲が良いとは言えない

すぐ上の姉は年も近く一番仲が良かったが年月が経つにつれ疎遠になってしまった

母と一緒に働く女性が同じアパートに住んでいた

記憶は定かではないが頻繁に顔を出してきたように思う

後年そのことについて母に聞くとその女性は僕たち家族が貧困に追われ一過心中でもするのではないかと心配してくれていたらしい

それほどに僕の家庭は貧しかった

だが小学校へ上るか上がらないかの頃の僕には「貧困」と言う意味さえわかっていなかった

小学校で僕は飛びぬけて出来が悪かった

泣き虫で体が弱く勉強も出来なかった

甘えん坊で依頼心が強く自分では何も出来ない関西弁で言う「あかんたれ」だった

姉三人はそれなりに勉強も出来、スポーツも出来たので家庭環境のせいではないと思うが僕のその状況について母は何も言わなかった

放任とかではなく生活にいっぱいいっぱいでかまってられなかったのだろう

そんな傍から見ればどうしようもない僕だったが仲の良い友達は何人かいた

その友達と毎日遊ぶ中で僕の身体もすこしずつだが人についていけるようになった

 

小学校四年生の頃仲のいい友達二人とあまり話したこともないクラスのO君の家へ遊びに行くことになった

クラスでも影の薄いO君に「遊びに来ないか」と誘われ○○と××が「□□どうする」ときかれ「うん、別にいいけど…」と消極的な気分で遊びに行くことになった

彼の家は九世帯が住む僕のアパートより大きな家だった

玄関の門扉を開けると両脇に芝生が植えられ玄関に至るまで御影石が並べられていた

奥の駐車場に外車が二台留っており、さらにその奥にひょうたん型のプールがあった

彼は僕たちが欲しいと思ってもその高価さに口に出すこともはばかれるようなゲームやおもちゃを持っていた

現在で言うアミューズメントパークのような家に思えた

彼の母親は若く綺麗に化粧をしていて近寄るといい匂いがした

母が仕事に行く時に付ける匂いとはどこか違っていた

ひとしきり遊んだあと彼の母親は紅茶と苺がのったケーキを出してくれた

生まれて初めて食べるショートケーキだった

甘くふわっとした生クリームがこの世のものとは思えないほど美味しかった

帰る時彼の母親が

「○○君、××君、□□君、今日は遊びに来てくれてありがとう、きっとまた遊びに来てね」

と言うようなことを言った

子供心に変な事を言う人だと思った

家に帰り母が帰るのを待ってその日のことを興奮気味に話した 

初めて食べたショートケーキのこと、さまざまなゲームやオモチャ、彼の母親がいい匂いをしてたこと…

そして今度また遊びに行くことをいうとそれまで黙って、少し笑いながら聞いてた母が

「あんた、その子と遊びたいから行くんか?それともオモチャやゲームがしたいから、ケーキが食べたいから行くんか」

と聞いてきた

そういえば今日彼の家でゲームをしたりオモチャで遊んだりしたがO君と遊んだ記憶が無かった

普段からの友人の○○や××の笑い顔や笑い声は記憶に残っているがO君の顔だけが記憶からすっぽり抜け落ちていた

結局O君の家に行ったのはそれが最初で最後になった

彼の母親はO君が友達を作るのが苦手なのを知っていて「きっとまた遊びに来てね」などと言う念を押したのかもしれない

一年後○○は父親の仕事の都合で転校して行き、××と僕は少しさびしくなったがそれなりに小学生と言う時代を楽しんでいた

卒業の時、誰も気に留めなかったがそこにO君はもういなかった

彼の父親が事業に失敗し夜逃げをしたという人もいたし、彼の父親はある組織の幹部で敵対組織に殺されたと言ううわさも有った

実のところ親が離婚しO君はあのいい匂いがする母親に連れられて母親の実家へ越したというのが真相らしい

僕は少し後悔をした

あの時、オモチャ目当てでもゲーム目当てでもケーキ目当てでも彼のところへ遊びに行けばよかった

そうするうち彼の笑顔や笑い声、一つ一つのしぐさが僕の記憶に残ったかもしれなかった

彼の記憶は小柄なやや節目がちの少年としか僕には記憶されていない

 

  

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