昨日降った雨の名残でその公園に造られたヤグラが靄で煙っていた。
吐く息が白くなり、手の先がかじかんできていた。
もう少し厚手のコートにして置けばよかったと悔やんだが今この場所を離れるわけには行かない、伸子と行き違いにる恐れがあった。
しかし、すでに待ち合わせの時間は過ぎていた。六時三十分の列車に乗らなければならずそれにはあと三十分の猶予しかなかった。
必ず来てくれるはずだった。家を捨て親を捨てさせる事は忍びなかったが親の反対を押し切って一緒になるには駆け落ちしかなかった。
小さな雨が落ちてきた。心の中まで凍らせるような雨だった。それでも伸子を待ち続けたが伸子は来なかった。
小さな会社に就職が決まっており前途は洋々とは言えないまでも希望に満ちて向かうはずだったが結局敗残兵のような心で未来へ向かう列車に乗った。
* * *
巨大なビルの【会議室】と書かれた一室で等間隔にグリッドが打たれたボードを見ながら大庭はこのボードが今のこの会社の全てだったら自分はこのグリッドで打たれた升目の何個分の貢献をしてきたのだろうと思っていた。
企業の主幹部分に携わってきたと言う自負がある。
決して少なくは無いはずだ。と、思いながらも大企業とはいえ一企業、日本全体から見れば僅かなものでしかあるまいとも思ってしまう。
「どうです大庭さん」
自分の名前を呼ばれて我に返った大庭はあらためて今、目の前にいる取引先の社長の顔を見た。
半ば禿げ上がった額は象の足のような異様な皺が刻まれている、それは辛酸をなめたことによる苦労皺ではなく会社が好調な時代、夜の世界に足繁く通ったことによる不摂生から来ているように大庭には思え、この世にある醜いものを全て集め凝縮したような塊に見えた。
面会を求めて来たこの男は最近少なくなっている取引の見直しを求めに来たのだった
不覚にも大庭はこの男の名前を思い出せなかった。
男が話を続けた。
「確かに大庭はんとこも厳しいのはわかってますけど、今、取引を打ち切られたらどないもならんのですわ」
この男の関西弁にも腹が立った。
「たしかに大須賀工機さんの言い分もわかるんですが、当社としても…」
横に座っている川田涼佑がしたり顔で口を挟んだ。
この男は自分は仕事が出来ると思い込んでいる入社して四年目の見た目ばかりを気にし、頭の中は女と金のことしか無い薄っぺらな男だ。
その薄っぺらな男が考えもなしに企業と言う後ろ盾を頼りに父親ほども年の違う目の前の男に横柄な口を利く、そのことも大庭には苦々しく思えた。
「そやから川田さん、もちろん今までどおりの契約やなしに仕切りをも少し下げさせてもらいますさかい」
またこれだ、こういう手合いの社長と言う肩書きがつく男は取引の商談は値下げしか無いと思い込んでいる。
それでまた従業員のボーナスやら給料やらを良くて据え置きか、下手をするとダウンさせ会社を維持させる気なんだろう。
同じ団塊の世代として生まれ育ち、他の世代に比べはるかに多くの同世代と競い合ってきたはずなのにこうも考え方の違いが出るのは本人の性格以上にそれぞれの人のおかれた環境がその差を生むのだと言えるのだがそれは大庭にしてみれば甘えそのものとしか思えなかった。
たしかに政府の経済政策は『良い』とは言えないが、あながち『悪い』とも言えない。
それでも中小企業の経営者は全て政策のせいで自分の会社が傾きかけていると思っている。
いや、そう思うことによってある意味では同情を買いながら責任転嫁を図っているのかもしれない
こういう輩がこの十年の日本を駄目にしていると大庭は思っているがそんなことはどうでもよく今の大庭は一刻も早くこの話を切り上げたかった。
何気なさを装って見たブランドの時計はこの男と会って三十分経っていることを告げていた。
大庭にとって、会社にとって無駄な三十分だった。
「でもそれでは大須賀工機さんも利益は出ないんじゃ…」
川田のその言葉を待ってたかのように動いた男の舌は動物が獲物を前にした時の舌なめずりのように見えた。
「それはそれ、たしかに利益と言う面では厳しおますけど、なんと言っても業界最大手の東西精工さんと取引があるゆうだけでぎょうさんのメリットがおますねん」
「坂上さん、そんなお世辞を言っても…」
大庭は聞いていて虫唾が走ったがその阿りを見抜けるほど川田の頭は良くなかった。
「そうだ、この男は坂上と言って10年ほど前から取引を続けている大須賀工機の社長だ」
大庭は会話を聞いていてやっと目の前の男が最近上司から取引を見直すように言われている大須賀工機の坂上だということ思い出し口を開いた。
「坂上さん、何にせよこれは我々ではなく上の決定なんでね、私には何ともしがたいんですよ」
「そんな大庭さん」
一瞬泣きそうな顔をした坂上を猫がネズミをもてあそぶ時の目で大庭は言った。
「でも、今までの長い付き合いもありますのでもう一度上に掛け合って見ましょう。あまり期待をされても困りますが…」
「そうでっか、助かります」
大庭が言い終わらないうちに良い返事をもらえると思い込んでいる。
世の中には「考えておきます」と言う返事を本当に考えてくれるものと思う人間がいる。
その時の「考えておきます」は「もう話しても無駄だから帰りなさい」と言う意味だと理解できない、その段階で社長業は失格である。
そういう意味でこの坂上と言う男は二重に経営者失格であった。
坂上の晴れやかな顔を見ながら上司に言われるまでも無くこの会社とは縁を切るべきだと大庭は確信していた。
大須賀工機との取引停止は別に上の指示だけではなく大須賀工機が別の会社に納めている部品に大量の不良が見つかりそれを闇のうちに処理をしたという大庭自身が集めた情報によるものだった。
不良が発生するのには原因があり、その不良を改善するのにはコストがかかる。
だが、あの坂上は更に値引きをするという、どう考えてもつじつまが合わなかった。
坂上が帰ったあと大庭が川田に出した指示は早急に大須賀工機の製品の在庫を返品することだった。
川田に一瞬疑問の表情が浮かんだが上司の命令であり口出しすることが出来なかった。
ここで一言でも異議を唱えるだけの力量があれば大庭もこの男を見直すことが出来たのだが川田は指示をそのまま履行した。
返品理由はいくらでもあった。
『当社品質規格基準を満たしていない』というのが一番もっともらしい理由付けだった。
当然大須賀工機は困るだろう、もしかしたら倒産するかもしれない。
だが大庭にしてみればそれは彼らの自業自得でしかなく、塵ほどの同情も抱かなかった。
一ヶ月後大須賀工機は二度目の不渡りを出して倒産し、大庭は未然に被害を防いだとして内々ではあるが表彰された。
上司から表彰状を受け取ったとき大庭はすでに坂上の名前も顔も忘れてしまっていた。
***
真っ暗なマンションの鍵を開けるとタイマーでセットしておいた空調の冷気が大庭を迎える。
週二回来ている通いの家政婦は掃除と洗濯だけをして帰り、それ以外のことは一切しなくていいときつく言っていた。
会社の極秘データもセキュリティボックスの中とはいえ家においてあり長年付き合いのある家政婦派遣事務所といえど信用できなかった。
大庭にとって今、一番信用できるのはこの最新式の空調システムと今腕から外されたロレックスの時計だけかもしれない。
その時計は三〇年前、当時羽振りの良かった叔父から就職祝いに貰ったものでかなり高価だったと言う。
その叔父もバブルにもてあそばれ当時の面影はなく今はどこでどうしているのか行方も知れない。
自動巻きのその時計は三年に一度オーバーホールしなければならず手はかかったがその辺のクオーツ時計よりはるかに信頼できた。
人間は信用できなかった。
妻も、娘さえも…
十年前に別れた妻の恭子はすでに別の男と結婚していてその男の連れ子と新しい生活を営んでいる。
小さな会社の経理をする風采の上がらないその男は先妻を病気で亡くし小学生に上がる前の男の子を抱えた、ただおろおろするばかりの誰がどう見ても魅力に欠けた男だった。
妻がなぜそんな男の元へ走ったのか大庭には全く理解できなかった。
関係は男の先妻が生きている頃から始まっていて病床で残す子供のことを妻に託したと言う。
それさえも大庭には信用できなかった。
自分の子供を不倫相手の女に託すとは思えないし託されたとはいえ実の子供でもないものと一緒に生活をして続くはずがない。
大庭の思考の根幹は全て否定であった。
それが大庭を今の地位へと押し上げた。
妻の恭子は大庭と夫婦の関係にあった頃すでにその男と関係があったということで普通なら妻の方が責められるべきだが実の娘の恵理子までが妻の側についた。
離婚調停でも娘の意見が重きを成し妻側のペースで進んでいった。
「家庭を顧みず円満かつ安寧な家庭の建設に勤める努力が皆無で夫婦及び親子間の健全な関係を営むことが不可能」
いかにも弁護士が言いそうな文言だがこれが妻側の言い分の全てだった。
家庭と仕事を両立させると口で言うのはた易いが実際となるとそうは行かなかった。
特に大庭の場合のように任されている仕事が企業の主幹事業であればプレッシャーも大きく費やす時間も労力も必然的に大きくなる。
だが妻の言う事は大庭には理解できなかった。
自分は一度たりとも暴力を妻にも娘にも振るったことはない。ギャンブルをして大きな借金を作ったこともない。収入は同年代の友人に比べ群を抜いて多い方である。
指弾されうるところは何も無いと思っている。
それでも形勢は大庭に不利だった。
弁護士を立て裁判で争うべきだという者もいたがその頃の大庭は仕事に追われ離婚裁判どころではなかった。
当然、調停の再三に渡る出席要請にもこたえられず本人欠席のまま進められたため調停員の心証も悪くほとんど妻の側の言い分が通った結果になった。
成城に立てた家は売却しその金のほとんどが妻の物になった。
大庭は残りの金でマンションを買い、その後娘の恵理子はアメリカへ留学し現地でアメリカの男と結婚し、二年ほどして送られてきた写真には肌の黒い赤ちゃんを抱く恵理子とその後ろで歯の白さが際立って見える軍服を着た男が写っていた。
大庭から去る者はいたが近寄るものは誰もいなかったが、そのことを大庭自身は気に留め
ることもなくある種独身の気軽さを楽しんでいた。
夏も終わる頃会社の中で大きなプロジェクトが囁かれるようになった。東南アジアで
発見された石油天然ガスの一括輸入に関するプロジェクトで、当然大庭の部が担当することになる。
その為には今担当している企画を一日も早く完了させそのプロジェクトに取り掛からねばならない。
プロジェクトが発表されたときにはすでに半分は終了しているような状況にもって行かなければならない。
大庭は大企業には珍しく途中入社だった。
もちろん一般試験を受けての入社ではなくヘッドハンティングである。
今の直属の上司である石上に請われこの会社にやってきたのが十六年前である。
確かに石上の面目を保つような仕事はこなしてきたつもりである。だが何かが足りなかった。常にそこそこであった。
もちろん石上に恩義など感じているわけではない。石上と自分は需要と供給の関係だと思っている。
石上は有能な部下を欲しており自分は実力を出せる職場を欲していた。
前の職場は決して居心地が悪くは無かったがいかんせん規模が小さすぎた。
石上が大庭を口説いた「ブルドーザーで芋ほりをしてていいのか」という台詞のとおり、大庭の力は無駄に使われていた。
大庭自信この会社へ来て自分の実力を知ることが出来、それは大きな発見で石上の人を見る目には敬服する。なにしろ自分にもわからなかった能力を他人が、僅か数回あっただけの人物が見出したのである。
もちろん大庭自身ある程度の自信はあったがここまで成功するとは思っていなかった。
ただ、その成功に反比例して大庭の中で失われていくものがあった。そのことに大庭は気づかず気づこうともしなかった。
ネクタイを緩めた大庭は冷蔵庫から氷を出しヘネシーのボトルとグラスをリビングのテーブルに置きソファに腰を沈めた。リモコンを操作しテラスに備え付けられた電動のブラインドを開けた。
暗闇の向こうに都会のイルミネーションが無機質に輝いて見える。
一八階のこの部屋から東京の夜景を見るとほとんどの者は綺麗だと思うと同時に切なさを感じるのだが大庭は綺麗とも切ないとも思う事はなくただの光にしか見えなかった。
グラスの向こうに石上の顔が浮かんだ。
今日石上に呼ばれ東南アジアのプロジェクトのことを聞かされた。
大庭が思っていたとおり営業一部で受け持つことになり一年以内に軌道に乗せるように言われ大庭は事務のようにそのプロジェクトを引き受けた。
テレビは今日起こったさまざまなニュースを伝えていたが、そのどれにも興味があるわけでなく、ただ映っているだけだった。
ヘネシーのボトルは半分ほどまで減っていた。もともとあまり飲むほうではない大庭だったが次第に減り方が早くなっていた。
家で食事を取ることはほとんどなく取引先の接待が唯一大庭のカロリー摂取方法だった。
たまに部下を連れて行くこともあったが、どう考えても部下が自分を慕っているとは思えない。石上も自分のことをただ仕事が出来る有能な部下ぐらいにしか思っていないだろう。
それで充分、と言うよりそれ以上関わりあうのが大庭にとっては苦痛だった。
酒は次第に大庭の精神を開放していった。
大庭はこの酔うまでの過程が好きだったが決して酔っ払うことはなく常に程々だった。CNNテレビのニュースは海外で今なお続いている戦争の悲惨さを伝えていた。
同時通訳が少し遅れて通訳するのがまだるっこしく日本語をOFFにして聞いていた。
大庭にとってはどことどこの国が戦争しようと誰が死のうと何の感情もわかず、むしろその誰かの死が何らかの利益を生むのならそれをも利用しようとするのが務めだと思っている。
そんな大庭の感情に関係なく解像度の良いカメラが現場の『死』を余すことなく捕え、更に解像度の良いテレビが完全と言っていいほどその残虐さと、おびただしい血の跡が悲劇を事実として訴えていた。
小さく咳き込んだ時、テレビの画面が一瞬グラッと歪んだ。
今日はまだ一杯しか飲んでない、疲れているのかと思った。
大庭はグラスに目を落とした。
琥珀色であるはずのグラスが今テレビで見た残虐な色に染まっていた。
次の瞬間胸の奥が痙攣し肺の奥から何かが込み上げ口の中が生臭くなった。
洗面台へ走り口の中の生臭いものを吐き出した。それは赤黒い血の塊だった。
一度では収まらず何度も吐き出し、その度に大量の血がビチャッと言う音を立てて洗面台を覆った。
まるで温泉にあるライオンの口から出る湯のように血を吐き、横にかけていたタオルで口を覆ったが白いタオルが見る見る真っ赤に染まっていった。
意識はしっかりしているが今の自分がどういった状況になっているのかが理解できなかった。
血は次第に粘りのない鮮やかな赤へと変わっていった。
それは溜まった血ではなく新しい血液を吐き出していることの表れだった。
大庭は人間がここまで大量の血が出るものかと不思議さを感じていた。
いつの間に救急車を呼んだのかも憶えていなかったが救急車の中でいろいろ質問されることにはしっかりと答えることが出来た。
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